2011年6月19日

しーちゃんのこと 13

二学期が始まって少し経ったある木曜日の夜のこと。
バレエ教室のレッスンを終えた私は、愛ちゃんと一緒に帰宅するために駅に向かっていました。
二人、別々の高校の制服姿でした。

「あべちん、はっきりお断りしたみたいだよ」
「へー」
「相手の男、逆ギレ気味だったらしいけど、今後もしヘンなことしたら、あんたの恥ずかしいメール全部、プリントアウトして学校の掲示板に貼り出すからね、って言ってやったら、死ね!ブス!って子供みたいな捨て台詞吐き捨てて、駆け出してったって。なんだかねー」
愛ちゃんが苦笑いを浮かべて教えてくれました。

お教室の発表会が近いため、その準備をお手伝いしていたので、いつもの時間より一時間くらい遅くなって、ターミナル駅に着いたときは7時を少し回っていました。
母にはあらかじめ言っておいたので、門限的な問題はないのですが、別の問題が起こっていました。
駅が大混雑。
2時間くらい前に沿線で人身事故があったらしく、運転再開された直後のようです。
「すごいねー」
「こんな混雑、珍しいねー。乗れんのかなー?」
「ちょっとどっかで時間潰してく?」
「あ、でもあたし今日、8時から絶対見たい番組があったんだ。陸上の大会の総集編」
「そっかー。じゃあ乗っちゃおうか?」

ホームもギッシリ。
こんなに混んでると痴漢とか出そうだから、女性専用車両まで行こうということになったのですが、ホームを進むのもままなりません。
それでも人をかき分け進んでいるうちに、電車がホームに到着しました。
ギッシリ満員状態で、どう見たってこれ以上、乗り込むことは出来そうにありません。
でも、電車のドアが開くと、思った以上にたくさんの人が降りてきました。
ターミナル駅なので、乗り換えのお客さんが多いのでしょう。
ゾロゾロ降りる人の波が途切れると、今度はホームから電車の入口へザザザーッと人が流れ込みます。
人波に押され、私たちも近くのドアに吸い込まれるように飲み込まれてしまいました。
女性専用車両まであと2両というところでした。
愛ちゃんもいるから大丈夫、と思っていたら、いつの間にか隣にいたはずの愛ちゃんの姿が見えなくなっていました。

私は、電車の連結部分のドア横の壁にからだを押し付けられていました。
左手で持っているスクールバッグが壁と自分のからだの腰の辺りの間に挟まれてクッションみたくなっています。
何も持っていない右手は、とりあえず壁にべたっとつきました。
私の左右横は、同じような姿勢の中年サラリーマン。
左肩あたりの背後からぎゅうぎゅう押され、右肩のあたりにかろうじて少し空間がありました。
首を右にひねって見ると、見えるのは誰かの肩や背中ばかり、ドアの窓からの景色さえ見えず、いわんや愛ちゃんの姿をや。
私の右後ろには、OLさんらしいグレイのスーツ姿の女性の背中が見えました。

私が乗り込んだのは、通勤通学時間だけ走っている快速でした。
バレエ教室のあるターミナル駅を出ると、途中駅を二つとばして私の降りる駅まで止まらずに行きます。
こんな混雑ですから、いちいち駅に止まるより一気に走ってくれたほうが時間も短かく済んで助かるかな。
これは、ある意味ラッキー?
そんなことを考えていたら、電車が動き始めました。

電車が揺れるたびに、背後からぎゅうっと押されて、からだが壁に押し付けられます。
さっきから私のお尻、臀部左側に何かがピタッと押し付けられていました。
誰かのカバンか太腿かな?
最初はそう思っていたのですが、そのうち、その押し付けられたものがサワサワと動き始めました。
撫ぜるように、軽く掴むみたいに。
手のひら・・・

痴漢!
一瞬、パニックになりました。
そのスカート越しにお尻を這い回る手の感触は、間違っても気持ちいいなんて種類のものではなく、ゾワゾワと悪寒が何べんも背筋を駆け上ります。
トラウマになっている、あの日の感触にそっくり。
私は、一生懸命腰を引いて、その手から逃れようとしますが、その手はぴったりとお尻に貼り付いて、ますます大胆に動いてきます。
怖い。
助けて。

そのとき唐突に、私がトラウマを受けた後、バレエ教室のやよい先生にご相談したとき、言われた言葉を思い出しました。

「そこでその男に何の負い目も背負わさずに逃がしちゃうと、次また絶対どこかで同じことするのよ、そのバカが」
「それで、また別の女の子がひどい目にあっちゃう可能性が生まれるワケ」
「そのときに大騒ぎになれば、たとえそいつが捕まらなくても、騒ぎになったっていう記憶がそのバカの頭にも残るから、ちょっとはそいつも反省するかもしれないし、次の犯行を躊躇するかもしれないでしょ?」
「もし、万が一、また同じようなことが起きたら、絶対泣き寝入りしないでね。他の女性のためにもね。なおちゃんならできるでしょ?」

逃げちゃだめ。
やよい先生とのお約束、守らなきゃ。

痴漢の対処法は、やよい先生がバレエの合間に教えてくれていました。
大声をあげる。
足を思い切り踏んづける。
さわっている腕を掴まえてひねるようにしながら高く上げる。

足を踏んづけようにも、自分の足もほとんど動かせない状態ですし、私の後ろにある足が痴漢の足とは限りません。
迷っているうちに、お尻を這い回る手は、お尻のワレメのあたりをスリスリし始めました。
まだ電車が走り始めて2分くらい。
次の駅に着くまであと4~5分間もこのままの状態でいるのは耐えられません。

なんとか首を曲げて、左肩越しにいるであろう痴漢の顔を見てやろうと思うのですが、左肩を強く押されていて首が曲げられません。
仕方ないので、反対側の右後方に首をひねりました。

グレイスーツのOLさんの背中肩越しに、OLさんより20センチくらい背の高い、紺のスーツ姿の若いサラリーマンさんが視線を下に落として、こちらを向いていました。
髪をちょっと茶色っぽく染めていて、けっこうヤンチャそうなイケメンさんでした。
OLさんの左手が脇からそのサラリーマンさんの背中に回っていて、OLさんがサラリーマンさんにもたれるように立っているので、二人は恋人同士、カップルさんなのかもしれません。

そのサラリーマンさんがフッとお顔を上げて、私と目が合いました。
サラリーマンさんが私の目をじっと見て、声には出さず、
「ち・か・ん・?」
ていう形に、問い質すようにゆっくり口を動かして、少しだけ首を横に傾けます。
私は、その人の目を見ながら小さくうなずきました。
背の高いあのサラリーマンさんからは、私がさわられているお尻のあたりがきっと見えているのでしょう。
そこに貼りついた手は、今度はスカートの布地をつまんで、ソロリソロリとまくりあげようとしていました。

もうがまんできませんでした。
サラリーマンさんと目があったことで、勇気も湧いてきました。
首を正面に戻して、左手を掴んでいたバッグから離しました。
バッグは私のからだと電車の壁に挟まれているので、下に落ちることはありませんでした。

やめてくださいっ!って大声で叫ぶと同時に、痴漢の腕を掴もう。
そう決めました。

お尻側のスカートの布がスルスルと上に持ち上がっていくのがわかりました。
もう猶予は、ありません。
痴漢の手が中に侵入してきたりなんかしたら・・・

一回深く息を吸って、
「やめてくだいっ!」
ありったけの声をはりあげたとき、
「こいつ、痴漢ですっ!」
後方からも男性の大きな声が聞きこえてきました。
あのサラリーマンさんが、誰かの手首を掴んで高く上に上げていました。
その瞬間、私のスカートも強く引っぱられるようにまくり上げられちゃったみたいでした。

気がつくと、こんなギュウギュウの満員電車のどこにそんな余裕があったのか、私たちのまわりだけ20センチくらいずつの空間が空いていました。
その空間の中にいるのは、私とサラリーマンさんとOLさんのカップルと痴漢の犯人。
サラリーマンさんは素早く痴漢の人を背後から両腕をとって羽交い絞めにしていました。
痴漢の犯人は、白髪まじりで中背、痩せ型の、一見品の良さそうな中年の男性でした。
着ている麻っぽいスーツがちょっとくたびれている感じもしました。

「何するんだっ!冤罪だっ!」
痴漢の人が大声を出して足をジタバタさせています。
「アナタ、お尻さわれてたのよね?」
グレイスーツのOLさんが聞いてきます。
「は、はいっ!」
私は上ずった声をあげて、大きくうなずきました。
「おまえがこの女の子のお尻さわってたの、俺は見てたんだよっ!」
サラリーマンさんが暴れる痴漢を恫喝するように、大声を出します。
「こんなに混んでんだ。もしさわったとしたって不可抗力だ!」
痴漢の人も負けてはいません。
「不可抗力でスカートつまんでまくったりするかい、ボケッ!いい年こいて、恥を知れ!」

まわりの乗客たちが、ある人は驚いたように、ある人は好奇の目で、私たちをジロジロ眺めてきます。
やあねえー、とか、だせーなー、とかヒソヒソ声も聞こえてきます。
みんなに注目されて、すごく恥ずかしいのですが、それ以上にコーフンしていました。
もちろん性的な意味ではなく、何て言うか、正義感的に。

「次の駅でケーサツに突き出すから、覚悟しとけっ!」
サラリーマンさんがもう一度吠えたとき、電車が減速を始めました。
「アナタも一緒に降りてね、面倒だけど」
OLさんがやさしく言ってくれます。
「は、はい。ありがとうございます」
OLさんは、お化粧がちょっと濃い目でしたが、キャリアウーマンぽいお仕事が出来そーな感じのキレイな人でした。

駅のホームに降りると、OLさんが走って駅員さんを呼びに行き、サラリーマンさんは痴漢の人を羽交い絞めにしたまま私と二人で立っていました。
痴漢の人は、観念したのか不貞腐れたのか、大人しくなっていました
ホームに居た人たちが、何事か?みたいな感じで遠巻きに眺めてきます。
愛ちゃんがどこからか駆け寄ってきました。
「痴漢?こいつ?うわー、災難だったねー」
心配そうに私の肩を抱いて、羽交い絞めされている痴漢の人を睨みつけてくれます。
「うん。でも、この人が捕まえてくれたの・・・」
私は、愛ちゃんのお顔を見て、一気に緊張が緩んだみたいで、目頭がジンジン熱くなってきてしまいました。


しーちゃんのこと 14

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