2011年10月30日

ピアノにまつわるエトセトラ 09

 6時ちょっと過ぎにゆうこ先生にインターフォンで呼ばれ、お隣のお部屋に戻ると、美味しそうないい匂いがお部屋中に充満していました。

「一人暮らしをしていると、凝ったお料理とか、めんどくさくてなかなか作らなくなっちゃうから、ね?」
 
 ニットの上にライトブルーのエプロンを掛けたゆうこ先生が、ダイニングテーブルにお料理を並べながら、私に語りかけてきます。

「これでも昔は、お料理教室にも通っていたことあるの。その頃習ったのを久しぶりに試したくなっちゃって」
「今日のテーマは、フランス一般家庭のおもてなしっぽいお夕食、って感じかな。ポトフは昨日仕込んで、じっくり煮込んであるから」
 
 お部屋には小さく、ラヴェルのピアノ曲集が流れていました。

 テーブルの上に、ポトフとラタトゥイユ、それに切ったフランスパンやチーズやサラダなどが並べられました。

「お夕食には少し時間的に早いけれど、ゆっくり食べながらおしゃべりしましょ」
 
 正方形のテーブルの向かい側に座ったゆうこ先生が、当然のようにシャンパンのグラスを私に手渡して注いでくれました。

「カンパーイ!」
 
 チンッ!

 お料理は、どれもとても美味しくて、私にしてはけっこうたくさん食べたと思います。
 おしゃべりも、ピアノのこと、音楽のこと、文化祭のこと、お友達のことなどなど、尽きることなくつづきました。
 それでもお料理があらかたなくなって、ゆうこ先生のグラスの中身が白ワインに変わった頃、束の間の沈黙が訪れました。

 そろそろ切り出さなきゃ・・・
 もう7時過ぎ。
 お迎えが来るまで2時間くらいしか残っていません。
 
 何て切り出せばいいのかはわかりませんが、とにかくそっちのほうに話題を持っていかなくちゃ。
 こういうときは、率直なほうがいいよね?
 私は、ありったけの勇気を振り絞りました。

「あのぅ…先生が以前、私のお家に…」
「直子ちゃんこの間、男の人はなんだか怖い気がするって…」
 
 私とゆうこ先生が同時に口を開いて、お互いの言葉がかぶってしまいました。
 あれ?
 これってなんだか、デジャヴ。

「あ、ごめんなさい。直子ちゃんからどうぞ。なあに?」

「あ、いえ、いいんです。先生からお先におっしゃってください」

「そう?じゃあ、わたしから…」

「直子ちゃん、男の人が苦手ってこないだ言っていたでしょ?だったら女の子でなら、誰か好きな人、いるのかな?って聞きたかったの」

「えっ?えっと…」

「あ、ううん。別に深いイミはないから、無理して答えなくてもいいのよ」
 
 ゆうこ先生は、緩い笑みをうかべたまま頬杖をついて、私をじーっと見つめていました。

「えっと…以前はいたのですけれど、その人は同じ部活の先輩とおつきあいを始めちゃって…って、えっ?」

 言った自分が驚いてしまいました。
 なんでこんなにスラスラと、正直に答えちゃったんだろう。
 言ってから、自分の言ったことの意味に気づいて、途端にドキドキしてきてしまいました。

「ふーん。それは残念だったわねー」
 
 ゆうこ先生は、私の動揺に気づいているのかいないのか、普通の感じで会話をつづけてきます。

「フられちゃったんだ?かわいそうに。それじゃあ今は、パートナーの人とかいないんだ?」

「は、はい…」

「片想い中の人、とかは?」

「…」
 
 それは、目の前のゆうこ先生、あなたです…
 言ってしまおうか?

「だったらやっぱり、アレは独り遊びなのかな?」
 
 独り言みたいにポツンとつぶやいたゆうこ先生。

「えっ?アレってなんですか?」
 
 ゆうこ先生の謎な一言、独り遊び、という言葉に私の心がひっかかり、ザワザワし始めました。

「うーんとね。ちょっと言いづらいのだけれど、この間のレッスンのとき、直子ちゃん、Vネックのワンピース着ていたじゃない?可愛らしいやつ」

「はい、先週のレッスンですね…」

「あのとき、わたし、直子ちゃんの後ろに立って弾いている手元を見ていたら、たまに直子ちゃんのワンピースの胸元が浮いて、隙間が出来るのね。それでピンクのブラが見えたりして」

「…」
 
 私は、瞬きも忘れてゆうこ先生の唇を凝視していました。
 心がいっそう、激しくざわめいています。

「それで、胸元の白い肌に、縄で縛った痕みたいのがあったような気がしたの、あと、何かに挟まれたような痣もいくつか」

「…」

「だから、ひょっとして直子ちゃんも、そういう独り遊び、しているのかなー、って思ったり思わなかったり…」

「せっ!先生っ!」
 
 バレてた!?
 
 私は、全身の血がすごい勢いで駆け巡るのを感じていました。
 恥ずかしさと、なぜだか怒りみたいな感情と、あと、パニックになったときみたいな思考停止がないまぜになって、思わず大きな音を立てて席から立ち上がり、ゆうこ先生をにらみつけていました。

「あ、ごめんごめん。言い方が少しストレート過ぎたよね?まあ落ち着いて、ね?直子ちゃん」
 
 ゆうこ先生はたおやかな微笑を浮かべ、両手のひらを下に向けて小さく振って私に、座って、のジェスチャー。

「つまり、わたしも同類なの。だから、肌に残ったその痕がロープとか麻縄で縛ったから、ってわかるし、たぶんあの痣は、洗濯バサミとかクリップとかでしょ?」
 
 私にはまだ、ゆうこ先生の言葉が届いていません。
 ゆうこ先生は相変わらず余裕の表情で、私をじっと見つめていました。

「だから、さっきわたし、直子ちゃんも、って言ったじゃない?」

 しばしの沈黙。
 
 ゆうこ先生が今おっしゃった言葉の意味することが、ようやく正しく私の脳に伝わり始め、私はヘナヘナと椅子にお尻を落としました。
 今、ゆうこ先生、わたしも同類、っておっしゃった?
 
 ゆうこ先生も、ロープや洗濯バサミで遊んでいる、ってカミングアウトされた?
 事の次第を、私の脳がやっと正常に理解しました。
 ワナワナしていた私の胸が、またたくまにドキドキワクワクに変わっていきました。

 これは、予想、いえ期待していた以上の大きな一歩です。
 ゆうこ先生と私は同じ、ってゆうこ先生も認めてくださったのです。

「何も心配しなくていいわよ、直子ちゃん。素子さんには絶対内緒って、約束するから」
 
 ゆうこ先生がイタズラっぽく笑って、私にパチンとウインクをくれました。

 それからしばらくは、私の独演会でした。
 相原さんとのことやしーちゃんとのこと。
 そして、しーちゃんとクリスさんのことを、大体正直に、全部お話しました。
 言葉が堰を切ったように、止まりませんでした。

 相原さんが図書室で裸になっていたことや、その後の顛末。
 しーちゃんとクリスさんのなれそめや恥ずかしいご命令遊びのこと。
 そういうことを体験したりお話を聞いて、コーフンしちゃったりうらやましいと感じてムラムラしてしまう私のこと。
 恥ずかしいことやみじめな状況を妄想して、独り遊びをしてしまう自分のこと。

 でも、トラウマの原因と、やよい先生とのことについては、全部隠しておきました。
 自分でも理由はわからないのですが、なぜだかまだ、そうしておいたほうがいいような気がしたんです。

「だからきっと、私はヘンタイなんです…」
「それで、そんな自分が無性にイヤになるときがあって、そうするともっともっと自分を虐めたくなって…」
「強く縛ってしまったり、いっぱい痛い思いをしてみたり…」
「そんなことをくりかえしてばかりで…」
「そんな私はやっぱり、ヘンタイなんです…」

 告白をしながら私は、例えようも無いほどの恥ずかしさと同時に、ずーっと胸に隠していた秘密をやっと解放出来た、ある種の爽快感も感じていました。

「ふーん、なるほどねー。直子ちゃんにも意外と、いろいろあったのね」
 
 ずーっと、時折相槌を打つくらいで、黙って真剣に私の告白を聞いてくれていたゆうこ先生は、うつむいて少し涙ぐんでるみたいになってしまった私に、テーブル越しに両手を伸ばしてきました。
 
 私も両腕を伸ばし、テーブルの中央でお互いの両手をやんわり握り合いました。
 まっすぐに顔を上げて、相変わらずたおやかな笑みを浮かべているゆうこ先生と見つめ合います。

「でもね、直子ちゃんは、自分をイヤになる必要なんか、ぜんぜん無いのよ」
 
 ゆうこ先生のやさしいお声。

「性癖なんて、人様に迷惑を掛けない限りとやかく言われるようなものではないし、普通、って言われている人と多少異なっていたとしても、それってその人の個性だから、ね?」
「それに…」
 
 そこでいったん言葉を区切って、ゆうこ先生は握り合っていた両手をやさしく解き、そのままご自分の胸の前で交差して、ご自分を抱くような仕草をされました。
 そして、私をまっすぐ見つめて、真剣なお顔でこうおっしゃいました。

「わたしは、直子ちゃんより、もっともっと、数十倍、ヘンタイだから…」


ピアノにまつわるエトセトラ 10

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