2011年11月13日

ピアノにまつわるエトセトラ 13

「なおちゃん、ずいぶん大貫さんに気に入られちゃったみたいね?」
 
 帰宅する車の中で母に、からかうみたいな口調で笑いながら言われました。

「飲み込みが早いし、一度注意すれば同じミスはくりかえさないし、って、ずいぶん褒めていたわよ」
「なおちゃんは、先生運がいいのね。百合草先生にしても大貫さんにしても」
 
 母は、なんだか上機嫌でいろいろ話しかけてきます。
 私は、曖昧にお返事しつつも、お尻がくすぐったいような、ビミョーな罪悪感を感じていました。

「大貫さんは、いろいろご苦労されたみたいだけれど、音楽家みたいな華やかなお仕事をされていてもだらしないところはないし、きちんとしたかただから、ママも大好き」
「うちでピアノを買うことになったときも、なおちゃんの前でいきなり弾いてびっくりさせちゃおうと思って、大貫さんにご相談して、彼女のお家でこっそり練習させてもらったのよ」

「あれってやっぱり、そうだったんだ?」

「それに、あのかた、ファッションセンスいいでしょ?プロポーションもバツグンだし、あんなお美しい方と離婚される旦那さまがいるなんて、信じられないわ」
 
 母は、まるでご自慢の身内の人みたいな感じで、ゆうこ先生を褒め称えていました。
 裏話を聞いてしまったばかりなので、若干の居心地の悪さを感じながらも、なんだっかすっごく嬉しい気持ちにもなっている私でした。

 その週の金曜日にも、ゆうこ先生が我が家を訪れました。
 月曜日のことなんて無かったみたいに、いつも通り母と3人で雑談して、いつも通りピアノのレッスン。
 
 レッスンの最後に恒例となっているゆうこ先生の模範演奏は、ドビュッシーの月の光でした。
 透明感のある素晴らしい演奏にうっとりしました。

 レッスンが終わってお夕食待ちの雑談中、やっと月曜日の流れに沿った話題がゆうこ先生のお口から出てきました。

「それで、次のうちでのレッスンはいつにしよっか?」
 
 ゆうこ先生が綺麗な瞳をキラキラさせて、私に聞いてきました。

 私の期末試験が控えているので来週、再来週は無理だから、12月の第一週、私のお誕生日が間近に迫った金曜日、ということになりました。
 17歳寸前に、私はエスデビューするのか…
 そんな、よく考えてみればすっこく意味の無い可笑しな感慨が、ふと湧きました。

「ところで、あの本は読んでみた?」
 
 ゆうこ先生のひそひそ声に我に返りました。

「あ、はいっ」

 ゆうこ先生のお家でのレッスンの帰り際にこっそり渡された一冊の文庫本。
 私は、いただいた日の寝る前から、すぐ読み始めました。
 その夜に、その本は持ち歩いて読むような種類の本ではないとわかったので、机の鍵のかかる抽斗にしまって、次の日からは、学校から帰って寝るまでの間にワクワクしながらじっくり読みました。
 
 紙面が少し変色し始めるくらい古い発行の本のようで、くりかえし何度も読まれたのでしょう、文庫本全体がなんだかクタッとくたびれていました。
 それは、一般に官能小説と呼ばれる類のえっちなシーン満載のSMチックな物語でした。

 とある全寮制の女子学園でくりひろげられる愛欲や嫉妬、策略や陰謀に満ちた百合物語。
 主人公的立場のSとMのカップルに加えて、ドSな美貌の女性寮長や気弱で言いなりの可憐な新入生などが、学園内や寮内でさまざまな痴態をくりひろげていました。
 
 性的な表現をわざとらしく過剰にお下品に書いているようなところもありましたが、全編、お上品な良家のお嬢さま風雰囲気を基本として進行し、物語としても普通に面白く、二晩で一度目を読み終えました。
 
 ゆうこ先生がおっしゃった、参考になる、っていう意味もすぐ理解出来ました。
 それから、M属性の登場人物に感情移入しつつもう一度読み終えて、今度はS属性の人の気持ちになって、更にもう一度読み返していました。

「あの本はね、わたしが先生からもらったものなの。高校1年のとき」
「それまでそんな小説、一度も読んだことなかったから、当時は文字通り、ぶっとんじゃった。それで夢中になって、何度も何度も読み返したの」
「レッスンのときに先生が登場人物と同じ科白を言ったりしてね。二人の共通言語だったな」
 
 ゆうこ先生が懐かしそうに目を細めて宙空を見つめました。

「直子ちゃんは、気に入ってくれた?」

「はい。すっごく」

「参考になった?」

「はい。とっても」

「そう。よかった。レッスン当日が楽しみね」

 ゆうこ先生宅でのレッスン以前に、その後2回、我が家でのレッスンがありました。
 そのとき、レッスン後の雑談の流れで聞かせていただいたのが、私の母について、ゆうこ先生から見た印象でした。

「素子さんはね、一言で言うと、すごく出来たお嬢さまがそのままオトナになった、って感じかな」
「あの人はね、物事に対して否定的な捉え方をしないの。どんなにつまらないことでも、そこに何かしらの面白みをみつけて楽しもうとするタイプなのね」

「物腰が柔らかくて、気取ったところも無いでしょ?ちょっとフワフワしていて、一見捉えどころが無いようにも見えるけれど」
「でも、芯が一本通っているから、たとえば性格が合いそうも無い人とかとご一緒することになっても、あの人自身にはブレがないの。懐が深いのね」

「だから、いったん気が合っちゃえば、一緒にいて楽だし、楽しいし、リラックスした気持ちになれるし、おまけに包容力もあるから、自然とまわりに人が集まってくるのよね」
「実の娘さんを前にして言うのも失礼だけれど、ちょっぴり天然なとこもあって、普通の人にとっては何でもないことをすごく驚いてくれたり、感心してくれたり」
「でも、そういうところも含めて全部、可愛らしく見えてしまうのは、素子さんの人徳よね」
 
 母を盛大に褒めてもらって嬉しいのは嬉しいのですが、娘としては、すっごくこそばゆい感じです。

 ゆうこ先生が少しお声をひそめました。

「ずっと前に直子ちゃんちでやった水着パーティのときも、わたしはレイカ、あ、タチバナさんのことね、に言われて、あの水着を着たのだけれど、素子さんは、純粋にわたしのプロポーションを褒めちぎってくれたの」
「あんな水着だもん、普通だったら、何て言うか、性的な気まずさ?道徳的なはしたなさ?みたいな、こう、一歩引いちゃう感じもするじゃない?」

「直子ちゃんのお母さまは、そんなことぜんぜん気にしないで無邪気に、こういう水着がお似合いになるのは、大貫さんしかいないわ!なんて本当に嬉しそうに言ってくれるの」
「素子さんもすごくキレイなプロポーションなのにね」
 
 ゆうこ先生は、なぜだかうつむいて照れていました。

 生憎そのときは、そこまでお話が進んだときにお夕食の時間になってしまったので、あの夏の日の詳しいあれこれまでは、お聞きすることが出来ませんでした。
 
 でもいいんです。
 それは12月のレッスンのとき、あの水着を着たゆうこ先生を虐めながらじっくり聞き出そうと、即席エス役に任命された私は、夜な夜なあれこれ、計画を練っていました。

 そしていよいよ、ゆうこ先生のお宅でのレッスン日がやって来ました。

 その日は、タイミングの良いことに学校の都合により、授業は全学年、午前中で終わりの日でした。
 
 私は、お弁当を食べた後に直接、ゆうこ先生のお宅へ伺うことになっていました。
 更にその日は、母が遠出をして一泊しなくてはならない用事があり、帰宅もお迎えも出来ないので、期末試験も終わったことだし、どうせならゆうこ先生のお宅にお泊りしてじっくりピアノの極意を教えていただきなさい、ということになっていました。
 
 無人のお家のお留守番は、篠原さんが快く引き受けてくれました。
 なんてラッキーなめぐりあわせ。
 土曜日の朝まで、半日以上ゆうこ先生と二人だけで過ごせるのです。

 えっちなお道具もいくつか持っていったほうがいいかな、とも思いましたが、すぐに却下しました。
 だって、その日は学校から直行。
 ということは、お道具もまず学校へ持参しなければなりません。
 
 もしも抜き打ちで持ち物検査とかあったら…
 そんなことキケン過ぎます。
 それにきっと、ゆうこ先生もそういうお道具をいくつかは持っているはず。
 ひょっとしたら、すでに準備良く、お部屋に用意されているかもしれません。

 そんなわけで、愛用のトートバッグに着替え用の下着とジーンズ、ニットを詰め、一番底にお借りした文庫本だけしのばせて、制服にコートを羽織った姿で、ゆうこ先生の最寄り駅に降り立ちました。
 
 時刻は午後2時前。
 今日は、ゆうこ先生の駅でのお出迎えはありません。
 
 よく晴れたいいお天気でしたが、さすがに吹く風は冷たく、行き交う人も背中を丸めがちな商店街。
 ワクワクな気持ちを抑えきれない私は、そんな商店街を足早に歩き始めました。


ピアノにまつわるエトセトラ 14

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